2006年12月22日

南米よ、さようなら!親切の恩返しを教えてくれたミサコさん、ありがとう!

>>12月15日のブログのつづき。。。 

 そうして、やっとたどり着いたブエノスアイレスで、強盗にやられ、(11月26日のブログ)、またバスに18時間乗り、ブラジルのフォス・ド・イグアスへ。
 
 南アフリカ共和国に空路で入るために、ブラジルのサンパウロに戻らなくてはならない
のです。
 
 サンパウロに直行するバスもあるのですが、実は私達、ひとつ問題を抱えていたんです。
それで、わざわざ、アルゼンチンとブラジルの国境地点で下りることにしました。

 問題というのは、ブラジルへの再入国。
次男の光のパスポートだけ、ブラジルに最初に入国した入国日のスタンプが押されていないこと。
 
 これは、どういうことかと言うと・・。
 
 まずブラジルはビザが必要なんですが、私達はパラグアイで、60日以内マルチ(最初の入国から60日以内なら何度入国してもいいという意味)ビザをもらいました。

 最初にブラジルに入国したのが、ここフォス・ド・イグアス(イグアスの滝観光の町)で、日は9月21日。
なので、ビザはこの9月21日を基準として、60日以内有効となるわけです。

 しかし、次男の光だけ、その基準の入国日の刻印がパスポートになかったのです。

 これは、これはブラジルに1ヶ月滞在し、ウルグアイへ行く前に気がつき、日本大使館に相談し、ブラジルの連邦警察(ブラジルは出入国関係は警察が担当)に足を運んだのですが、何もどうすることもできませんでした。

 こっちの世界では、こんなことでいちゃもんつけられて、罰金などを要求される?かもしれないわけです。
(まあ、いい人にあたって大丈夫かもしれない。)
それがわかっていながら、何も手が打てないのは悔しい。
日本大使館の係員も、言葉は丁寧でしたが、ブラジル側の問題(ミス)だから日本大使館には関係ない」って冷たいものでした。

 なぜ、光だけ入国印がないのか・・と思い出してみると、思い当たることがありました。
 
 それは、あの日、私達がブラジル入国の審査中に、国境で脱走犯がでたんです。
ブラジルは出入国審査は、警察がやっています。
私達は、まさにその入国の審査中で、スタンプがおされている最中でした。
「脱走犯だ!つかまえろ!」
という叫び声みたいな指示が出て、私達の審査をしている警察官も、即座に審査室から出ていったのです。
私達の4冊のパスポートをそのままにして。

 場は騒然となりました。そして、その問題がおちついて、審査官は戻ってきました。
もちろん、私達4人の誰まで審査が終わったか、あやふやになっていたことでしょう。
また、その騒ぎのせいで、列は長蛇になっていました。
審査官は、少し、急ごう、とも思ったかもしれません。

 結果、光のパスポートに刻印が忘れられたのです。
私達も、急いでバスにもどらなければと思い(バスに置いて行かれる)、パスポートの刻印を確認することを忘れてしまったわけです。

 バスはそのままサンパウロに行き、私達はサンパウロに滞在し、ウルグアイへのバスを買った際に印がないことが発覚したのです。

 刻印がないということは、最悪、どういうことが起きるか・・・

 それは、光のみ入国ができないということ。

 60日有効のブラジルビザの基準となる日付がないわけですから。

 もちろん、この詳細を、ポルトガル語で説明できれば、いいのでしょうが、できないし・・。

 そうなれば、罰金、または、ブラジルビザの取り直し。

 悪いことしてないのに罰金ってヤですよねー。
それに罰金は、以前、やはりパラグアイ・アルゼンチンの出入国で失敗して240米ドル(約2万8千円)も損してしまったあとだし。

 ビザの取り直しなら、光だけで済めば、70米ドル。
とは言っても、やはり、ムダなお金は払いたくないのが本音です。

 しかし、取り直しになる場合を考えて、最初の入国印が押されなかったこの国境(フォス・ド・イグアス)で、一旦バスをおりることにしたわけです。
もし、サンパウロまで行くバスに乗っていたら、入国できなかった場合、バス代をムダにしてしまいますから。

 この国境行きのバスであれば、万一、入国できない場合は、その手前の、すぐ近くにあるアルゼンチン側のプエルト・イグアスに戻って、ブラジルビザを再申請すればいいのです。
ここはブエノスアイレスで2日も3日もかかるビザが、数時間又は翌日には取得できるそうなのです。(有効期間は30日だけ)

 というわけで、私達は、ドキドキしながら、そして意を決して、そして、冷静に、ブラジル入国審査に向かいました。
 
 作戦?的には、まず、1番先に行くこと。
これは、バス1台分の大勢の人を審査するわけなんで最初の方がじっくりパスポートを見ないんじゃないかと。
2番目には、私達4人のパスポートの順番。
通常、審査は、ひとりずつおこなわれますが、私達は家族4人なんで、パスポートは4冊一緒に出すことを求められます。
この時、パスポートを、上からパパ、ママ、長男、次男の順に並べて出すことにしたんです。
受け取った側は、上から順にパスポートを開くでしょう。

 審査官は、まずパパのパスポートを開きました。
案の定、しっかり、見ています。

そして、問題のブラジルのビザを見、60日有効を読み、ブラジル入国日の印を見、今回の入国印を押しました。

 次、ママ。
パパと同じように、しっかり見てました。
次、長男たかゆき。
やはり見てました。
次、問題の光のパスポート。

 すると・・・なんと、光のパスポートは、ビザも入国印も全く見ることなく、開いたページに今回の入国印を押したのです!
 
 長男の分まではしっかりページををめくっていたのに・・。

 パパと私は、おもわず、心の中で「やった!」と叫び、審査員に見えないように、握り拳を握りました。

 というわけで、やはり私達は運がいい!と言いながら、バスへ。
その後、のりつぎでサンパウロ行きバスのキップもとれて(通常、長距離のバスの場合、私達は4席必要
なので前日でないととれないこと多かった)、無事、到着することができました。

 サンパウロにつくとまっすぐ「ペンション荒木」へ。
荒木のおばちゃん!帰ってきましたよーーー!

 それから、このブラジル入国スタンプもれで、尽力を尽くしてくれた日伯文化協会(以下文協)のミサコさんに、無事入国できたことを報告。
とっても喜んでくれました。

 ミサコさんとの出逢いは、サンパウロについて間もない時、子供達のサッカークラブ探しの行程なんです。
福岡県人会から、新潟県人会の会長さんを紹介され、その方がカントリークラブを紹介され、クラブ事務局が文協あると聞き、その文協事務室を訪ねたんです。

 その日は土曜で文協事務室は閉まっていて、「ああ、土日はだめか」と戻りかけたとき、ひとりの女性が文協事務室のカギをあけて、入ろうとしていたんです。
そこで私が声をかけたのが、ミサコさん。

 ミサコさんは、9歳のとき、ブラジルにやってきた移民。
日本語もポルトガル語もペラペラです。
9歳ぐらいでブラジルにやってくると、ブラジルで生きていくために、日本語よりポルトガル語になれてしまう子供もいるそうですが、ミサコさんの両親は日本語の教科書を日本から取り寄せ、毎日日本の教育をしてくれたそうです。

 ミサコさんには本当にたくさんお世話になりました。
サッカークラブ探しもそうですが、やはり、このブラジル入国印もれの一連の出来事では、本当によくしていただきました。

 私がいつもお礼を言うと、
「いいのよー。私もね、若いとき看護婦の研修で日本にいったことあるの。9歳で日本を離れたから、いろいろわかんなくてね。たくさんの人によくしてもらったのよ。だから、その恩返し。あなたは、またほかの誰かに恩返ししたらいいのよ。恩返しの恩返し。いいと思わない? お世話になった人に直接はできなくても、次に出逢った人に恩返しするの。親切の連鎖ね。きっと、それが続いていくと、素晴らしい世の中になると思わない?。」
ミサコさんはにこにこしていいました。

 本当に、私は、いい人と巡り会った!

 でも、これは、トラブルがあってこそ、なんです。
順調の中からはここまでの感謝は生まれなかったと思うのです。
だから、トラブルにも感謝。
こう考えると、旅も人生も、トラブルもまんざらではないのですね。

 そのミサコさんに見送られ、私達は南米にさよならを告げました。
ムイント、ムイント オブリガード!

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●宿のおねえちゃんに、あやとり教えたよ。

久米美都子42歳 福岡在住 (夫47歳、長男小5、次男小3)
旅行会社勤務を経て1994年ひとりで世界一周。
帰国後結婚、出産。その間も近場のアジアをちょこちょこ子連れで旅行。
2000年より子供ふたり(4歳1歳)連れて、子連れバックパッカー開始。タイ、ラオス、インド、モンゴル、韓国、フィリピン、ベトナムなど。
2005年福岡の西方沖地震などをきっかけに、2006年4月〜1年間の旅を計画。
2006年4月出発。
中南米とアフリカ、中近東を中心に世界一周の予定。

投稿者 suzuki : 12:07 | コメント (0) | トラックバック (0)

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